バックパッカーだった20代の頃、ずっと旅を続けるつもりでいた。
願っていたというより、そうなるのだろうと、自然に思っていた。街から街へ流れて、安宿に安い食堂を探して、時々観光にも出た。
いつだって、旅をしている事への開放感と、少しの虚無感があった。
もしかするとその虚無感は、安住の地を見つけることで解放されるのかな、とも思った。とにかく当時の自分には、旅以外に何も無かった。
中米で妻と出会って、帰国してから京都で暮らし始めた。虚無感に対する答えは、おそらく、場所ではなく人であったような気もする。
安住の地を京都に定めたわけではなく、妻と一緒にいれば、どこの土地でも暮らして行けるような気がしていた。
旅から帰って来た私たちには、初めの方、旅人の香りが残っていたのではないか。
山科の4畳半のシェアハウスに二人で暮らして、持ち物は少なく、物欲もなく、シェアメイト達と過ごす時間はどこか旅の延長線上にあったような気がする。もしかするといつの日か、また旅に出る事があるかなと、ぼんやり考えていた。
いつしか将来の事を真剣に考える時期が来て、シェアハウスを出て小さいアパートを借りた。
私たちは結婚して、子供を授かった。
当然だけど、命に代えても子供を守らなくては、と思うようになった。
自分の生き方を曲げずに、なおかつ家族に不自由しない生活を送ってもらうのは、簡単ではない。そんな生き方は人生の頂点なのかもしれない。
宿を開業してからは私は仕事に、妻は育児に割く時間がほとんどになった。旅の事を思い出したり、行きたい国を夢想する時間も、少なくなっていった。
ある日、妻も勧めてくれて、飛騨高山に一人で旅に出た。
宿で旅人を迎える側ばかりになっていたから、たまには一人の旅人に帰る必要性を感じていた。
久しぶりの一人旅は楽しかった。でも時々、いや、高山で過ごした多くの時間の中で、家族の事を考えていた。美しい風景があれば、娘にも見せてやりたいと思ったし、美味しい飛騨牛のお店があれば、家族で来れたらな、と思った。
高山での旅で、感じ始めた事があった。
自分は旅人として終わったのだな、と。
海外から帰国した瞬間よりも、飛騨高山で本当に強く感じた。
一人旅に出ようよと、そんな謳い文句でホステルノースキーの看板を掲げていながら、自分は旅人で無くなって行く。そんな矛盾の解決方法も見つからず、へたに接客のテクニックが身に付いて行くから問題が先延ばしになってしまった。
思い出話ばかりのおっさんなんて、タチが悪いぜ。
経営者として、割り切ってやって行くべきだろうか。いや、お前に商売が出来るかよ、と自問自答する日々を送っている。
それでもノースキーに何度も訪れてくれる方々に救われて、ここまでやって来た。
旅をするように暮らすって、一体どんなだろうか?
私の人生は幸福過ぎて、いつもお腹いっぱいご飯を食べているから、時々、考え込んでしまう。